誕生日を前に何を思う

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我、何思ふ!突然ですが、ふと、この世界から争いごとは消えないだろうな~って。

悲しいかな、これは事実だと思わざるを得ない。それは、歴史に疎い自分ですら、過去の歴史を見れば一目瞭然だから! だって恒久的な平和など歴史上のどこを探しても見当たらないもん。只存在したのは、ある程度の長い平穏な期間が存在しただけ。そして歴史が示すようにやはり争いごとによって壊されてしまっている。それをずっと繰り返しながら今が存在している。こんな歴史を持った世界、誰が恒久的な平穏を約束できますか?!?

近年この日本ではそれなりに生きていけるし、のほほ~んと平穏なときを過ごしているので、なかなか言ってる意味が分からないかもしれませんが、今この時も、同じ地球上のどこかで血なまぐさい争いがあちこちで絶えず起こっています。

じゃ~なんで、恒久的な「Love & Peace」な時間がやってこないのか?!?

たぶん、この小さい脳ミソで考える限りでは、人間の本能、他人よりも1センチでも1ミリでも上にいきたいというような、自己顕示欲や向上心なんでしょうね。

自分が考えるには、人間って、「相対的なものさし」と、そしてもうひとつ「絶対的なものさし」の二つをもっていると思うんですよ。

で、基本的には前者をいつも携えていて自分を保ち、人として成長する過程の中で、後者を少しずつ形成していくんではないかな~って思うんですね。

でも、社会では、相対的な価値基準でしか評価ができないために、それが全てのようになってしまっています。そのため個人としても自然と「相対的なものさし」で自分の居場所を確認するようになる。人って最終的には個ですし、いつも不安がつきまとい自分がどこに立っているのかよく分からなくなってきますからね~。だからといって「相対的なものさし」が悪いと言ってる訳ではなくて、むしろ自らを成長させようと思えば、この「相対的なものさし」が絶対に必要になってきます。「あの人よりもっとがんばろう!」「あの人を超えたい!」なんてことを思って切磋琢磨し、人は成長していくからです。只、その過程で自ずと生まれてくる競争意識にばかり支配されてしまうと、自らの価値観で形成されていくもうひとつのものさし、「絶対的なものさし」を他人に強要するようになっていくんです。この競争意識に支配された「絶対的なものさし」を強要すると、そこに摩擦が生まれてくる。そしてそれがエスカレートすれば……

そもそも「絶対的なものさし」は、人に見せるものでも比べるものでもなく、自らの経験を元に、過去の自分と現在の自分とを比較するためのもの。他人に強要するようなものではない。が盲目になってしまうと、自らの価値観がこの世のルールとばかり必要以上に強要したがる。そう、「正義感」を振りかざすように。。。

自己顕示欲からスタートし、いつしか自らの正義を強要するようになる。ん~、争いはなくならないな。

あれっ?!? 頭の中がまとまってない状態で書いてるから段々何を言いたいのか分からなくなってきたぞ。。。

頭の中が整理されて、また気が向いたらちゃんと書きます。※ここまで書いたので、一応ポストはしときます。

ってこれで終わったらあまりにも悲しいので、いつの日か平穏な「Love & Peace」な世の中がくることを祈って、明日の42歳の誕生日を迎えたいと思います。。。

とうとう42です。。。 これも現実です。。。

これから、その歳を実感できるフットサルの練習に行ってきます!

じゃっ!

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